2023/12/11 11:01
私たちがどのような経緯、思いでCenMOZOを立ち上げたのかご紹介するCenMOZOストーリー
今回は弁護士でありながら、フィリピン事業を創業した宮村の視点から切り取っていきたいと思います
【フィリピンにレモンの苗を植えた弁護士の話】

【はじめに】
フィリピンにレモンの苗を植えてから早くも3年が経とうとしています。ここで、一度、なぜ私が、この事業を始めたかを書き綴りたいと思います。
一言でいうと、
「社会課題が解決可能な事業により世界で戦える企業」
を作りたいと思ったからです。
今回は、フィリピンにレモンの苗を植えることがなぜ、「社会課題が解決可能な事業により世界で戦える企業」を作ることに繋がるのか、こう考えるに至った背景を説明していきます。
目次

1創業者宮村の生い立ち
(1)インドでのカルチャーショック
私は、台湾で生まれ、3歳から約3年間アラブ首長国連邦(UAE)で生活し、10歳から約4年間インドで生活しました。商社に勤める父の仕事の都合です。
幼い頃のことですので、台湾の記憶は殆どありません。
しかし、UAEについては、ただひたすら暑かったこと、高層ビルが立ち並んでいたこと、ラマダンと呼ばれるイスラム教徒の断食の時期にはまわりの大人がご飯を食べていなかったことなどを覚えています。
UAEから帰国した後は、1年生から3年生までは日本の小学校に通いましたが、小学校4年生から中学1年生まではインドのインターナショナルスクールに通いました。小学校3年生の終わり頃に、父親が帰宅するなり「インドへの赴任が決まったぞ」と伝えてきたのを今でも鮮明に覚えています。
インドの学校生活は、幼い私にとって大きな試練でした。当時は、英語が全くわからなかったので算数の授業中にも教科書に出てくる単語をずっと辞書で調べていましたし、会話ができないので同世代の子供たちから英語で話しかけられるのがイヤでイヤで仕方がありませんでした。それでも、家族の熱心な支援のお蔭で、2年が経つ頃には仲の良い友達もできるようになりました。インドの学校の最後の通学の日には、別れを惜しんで泣いてくれる友達までできるようになり、もっと友達を大事にしたら良かったなと後悔したりもしました。
さて、インドは、とても面白い国で、道路に牛が寝ていることが理由で大渋滞が起きたり、走っている電車に飛び乗るおじさんがいたり、給食では毎食カレーが出たり、駅の屋根の上に住んでいる家族がいたり、10歳の私に多大なるショックを与えました。
特に、タージマハルやガンジス川付近の観光地に行くと、私よりも小さい年齢の物乞いの子供たちがたくさんいたことは大きな衝撃で、物乞いの子供に、私の遊戯王カードと木彫りの象の置物を交換してくれ、とねだられたときは「NO!NO!NO!」と叫んだりした記憶もあります。
当時は、何となく「インドは日本とは全く違うな」とぐらいにしか思っていませんでしたが、今思えば、この頃から、貧困問題や教育支援に興味を持つようになったのだと思います。同時に、予想外のことばかり起こる異文化を知ることの楽しさも知りました。
(2)中国人学生からの感化
ア サークル活動
インドでの経験を踏まえて、世界の社会問題に深く触れてみたいという思いと、異文化をもっと知りたいという好奇心から、大学では海外インターンシップを運営するサークルで活動しました。
サークルの友達とは、今でも一緒に遊ぶような仲間たちと出会いましたが、特に思い出深いのは、上海でのインターンシップ参加です。
イ 上海インターンシップ
大学1年時の夏休みに、当時、世界で最も経済成長していた上海の企業でインターンシップしました。
19歳のときに、上海の企業に直接メールを送り、企業20社とアポイントメントをとり、単身で上海に滞在し、自らをインターンシップ生として採用してくれる企業を訪問しました。上海では、右も左もわからない上、中国語も出来なかったので、そもそも目的地に行くこと自体に苦労し、さらには、訪問先でも、訪問の準備が全く出来ておらず厳しくご指導いただくこともあり、泣きそうになるぐらい辛かったです。
しかし、大変有難いことに、IT関連のソフトウェアを販売する企業で2か月程度のインターンシップに採用いただけました。
インターン先の社長の懇意で、実務の営業や会議に同行させていただくことができ、現地で働く日本人だけでなく、中国人の経営者、従業員のお話を聞いたりすることで、何となくですが、中国の文化を知ることができ、中国人との意思疎通において気を付けるべき点を学ぶことができました。具体的には、中国人は日本人よりも一般的に向上心が高く、メンツを大事にし、愛国心が強いと感じたため、これらの点は常に意識して意思疎通を図るべきであることです。
加えて、中国人学生や外国人留学生と議論をしたり、中国の大学の講義を聴講させていただく機会があったのですが、そこでも大きな衝撃を受けました。
2010年当時、尖閣諸島問題に起因して、日中間の社会情勢が不安定だったのですが、この問題について日本人の友人同士で議論し合うという風潮は、少なくとも私の周りではありませんでした。ところが、中国では、寮の同じ部屋の学生同士が当たり前のように自主的にディベートを行っているというのです。
また、私が日本の大学で受けてきた授業の中では、大教室での講義中、自らの意見を積極的に発言する学生は殆どいません。教授から指名されてようやく当たり障りのない回答をする程度だと思います。しかし、中国の大学では、教授からの問いかけに対して、ほぼ全員が積極的に手を挙げるのみならず、講義中に、教授の説明を遮って質問や意見を言う学生すら多くいます。
このような社会問題に対する取組方や、勉学に対する姿勢について、日本と比較して、強い危機感を抱きました。ましてや、当時、日本が初めて中国にGDPを追い抜かれたタイミングであったこともあり、私は「このまま何もしなければ、日本は衰退するだけなのではないか。やばい。」と思うようになりました(今思えば、10倍以上の人口の差がありますのでGDPを追い抜かれるのは当たり前なのですが。)。
この頃から、考え方や文化が全く違う国の人々と一緒に何かをやることの楽しさを知ると同時に、「世界で戦えるような日本企業を応援したい/作りたい」と思うようになりました。
「まずは自分自身が世界で戦えるようになろう」ということで、大学3年次には、北京で100名規模の国際会議をサークルの仲間や中国の大学生と共に開催しました。この国際会議は、尖閣諸島問題に関して日中の学生間の対等な意見交換をする場を提供することで両国の理解を深めることをテーマとして開催したものです。なお、この会議を通して、小さいながらも、学生レベルでの日中関係の改善に寄与したという点で評価を頂くことができ、ヤフーニュースにも小さく掲載され、これにより「自分でも世界で戦うことができるんだ」と小さいながらも自信を得ることができました。

(3)震災ボランティアでの気付き
大学在学中、私の考え方に影響を与える他の出来事が発生します。東日本大震災です。当時の私にでもできることを考え、岩手県遠野市を拠点とした震災ボランティアに参加しました。震災ボランティアでは、「私が個人でできることはあまりにも少ない」ことを痛感することになります。
震災ボランティアでは、津波の被害にあった家屋の解体や、家屋に残された家主の思い出の物品の回収、泥で詰まった排水溝の開通(余談ですが私の担当外の排水溝から人骨が出たという話もありました。)といった活動等を主に担当しました。
これらの作業は地道な作業でしたが、当時の私にできる精一杯のことをやった自負はあります。しかし、単純な手作業しかできないため、いくらやっても全然作業が進まなかったことも覚えています。
一方で、英語が出来たことから、米軍関係者の方々による現地の小学校視察の際の通訳も担当させていただきました。米軍関係者の方々は、小学校に多額の寄付や物品の贈答をされていたようで、小学校の先生方が感謝の意を述べておられたことが印象的でした。
震災ボランティアでの経験で、私は、ボランティアにおいて、手作業で個人が出来ることの限界を感じた一方で、金銭的物品的な支援をすることも喜ばれることを目の当たりにしました。また、英語が出来たお蔭で、単純な手作業以外の貢献ができたことも嬉しく思いました。
そこで、「手作業のボランティアも大事だけど、専門知識や特殊なスキルを習得してそれらを提供することや、お金を稼いで金銭を寄付することの方がより多様な人に貢献できるのではないか。」と考えるに至りました。すなわち、「専門的な知識を用いて社会課題が解決可能な事業」を運営したいと考えるようになったのです。
ちなみに、このボランティアから数年後、同じく被災地域である岩手県宮古市にて、今度は弁護士の卵として何度か法律という専門知識を活かした地域の方へのボランティアに参加しています。
(4)司法試験受験へ
上海インターンシップや震災ボランティアの経験を踏まえて、世界で戦う日本企業を応援できる仕事に就きたいと思ったこと、そして、専門的な知識を身に着ける必要があると思ったことから、両方を兼ねる職業である弁護士を目指し始めました。
司法試験の受験勉強は、常に闇の中にいる感覚でした。
大学の同級生達が次々と就活を終え内定を決めていく中、受かるかどうかもわからない試験の勉強を数年続ける必要があるからです。
「あの先輩、司法試験撤退したんだって。」
「この講師のいうことを信じていれば絶対受かる。」
「彼、試験に落ち続けて、今はもう連絡取れないらしいよ。」
「40歳になってもまだ受験を続けている予備校の番人みたいな人がいる。」
「あの人、わずか2年の勉強で受かった天才らしい。」
色々な噂が耳に入ってきます。
私も例に漏れず、噂に惑わされながら、不安な気持ちを抱えながら、五里霧中で勉強していました。ただ、「自分のやりたいことのためには専門知識が必要だ!」と弁護士になることへの気持ちが強かったので、最後まで心が折れずに勉強を続けることができました。
そして、1日12~15時間程度の勉強を数年続けた結果、晴れて司法試験に合格することができました。
合格発表の日、約5年にも及ぶ長い受験生活を思い出すと同時に、弁護士を目指しはじめた当初の気持ちを思い返し「ようやくスタートラインに立てた。」と思いました。
(5)大手法律事務所勤務
弁護士としては、都内の大手法律事務所に入職し、幅広い業務を担当しました。特に多かったのは、M&A関連、ベンチャー支援、環境法関連、海外進出支援等の業務です。
国際的な案件や新聞を賑わせるような大きな案件に関与することも度々あり、日々、法律を用いて世界で戦えるような日本企業を応援することができました。
在籍時は、日常的に徹夜するほど、がむしゃらに働きましたが、困っている人を専門知識により直接助けることができる弁護士という職業は、とてもやりがいがある仕事であることを実感しました。特に、ジェンダー問題、労働問題、環境問題、社会格差問題、人口減少問題、高齢化問題、移民問題等の中には、弁護士にしか解決できないものも多くあり、これらの問題解決に貢献できる点も素晴らしいと思いました。
(6)インド出向とBeagle起業
さて、弁護士として業務を続けていく中で、かつての友人が次々と起業していく様子を目の当たりにします。私も、実際に、友人とリーガルテックの会社を創業する経験もしました(インド出向に伴い役員は退任済みですが、この会社はなんと来年上場予定です。)。
一方で、弁護士としてできることの限界も感じます。すなわち、弁護士はあくまで誰かの応援しかできないという点です。弁護士は、「世界で戦えるような日本企業を応援する」ことはできても、「世界で戦えるような日本企業を作る」ことはできないのです。果たして自分は、世界で戦えるような日本企業を「応援」したいのか「作りたい」のかを悩むようになります。
そんな中、大変有難いことに、幼少期に滞在したバンガロールの法律事務所へ出向する機会をいただきました。インドでは、インド企業に投資したいというベンチャーキャピタルからの投資案件や日系企業向けのセミナー開催等に関与しました。
インドでも高いモチベーションで弁護士業務を行っていたのですが、ここでまた事件が起きます。
コロナ禍で、多忙な中で昼夜を問わず在宅勤務を続けていたところ、窮屈な体制でパソコンを触っていたことが原因で、急性肺血栓塞栓症に罹患してしまったのです。
急性肺血栓塞栓症とは、エコノミークラス症候群とも呼ばれる病気で、食事や水分を十分に取らない状態で、狭い座席に長時間座り足を動かさないことで血液が固まってしまい、その結果、血の固まり(血栓)が血管に詰まってしまう病気です。血栓が肺に詰まった場合には、呼吸が出来ず死ぬ可能性も高いものです。
私の場合は、突然、左足が大きく腫れ、ベッドから動けないほどの強烈な痛みが生じると同時に、呼吸が困難になるといった症状が出ました。
外出規制が掛けられている中、文字通り地面を這ってインドの病院に何とか辿り着き、一命を取り留めましたが、今でも左足が腫れるという後遺症が残っています。医者には「たまたま生き残って良かった。」と言われました。
この病気がきっかけで、私は
「何が原因でいつ死ぬかわからないのだから死ぬ前にやりたいことをやろう」と心の底から思うようになります。
こんな中、そのとき滞在していたインドでの幼少期の記憶と、学生のときの「世界で戦えるような日本企業を応援したい/作りたい」という気持ちを思い出します。
そこで、やはり、誰かを応援するのではなく、自分自身で「世界で戦えるような日本企業を作りたい」と改めて思うようになり、一念発起し、株式会社Beagleの起業を決めました。
Beagleは、「Be a global leader」の頭文字をとったものです。「世界で戦っていく」という覚悟が込められています。
現在は、弁護士としての業務を継続しつつ、社会課題が解決可能な事業により世界で戦えるような日本企業を作るべく事業運営をしています。
