2023/12/05 14:36
CenMOZOが立ち上げに至るまでには、そこに携わるメンバーの様々な思いや葛藤が交錯してきました
「なぜ私たちが、CenMOZOを立ち上げ、フィリピンでの香りづくりを始めたのか」
それをメンバーひとりひとりの視点からお伝えしていきたいと思います
まずは、日本で活動する調香担当のメンバーである、尾崎のストーリーを前後編に分けてご紹介していきます
【CenMOZOストーリー ~どうして私たちは香りづくりをはじめたのか~ 尾崎の視点から 前編】

生い立ち
私は東京都の生まれで、2人兄弟の弟として練馬区で育ちました。
小さい時はとても無口で内向的だった私は、家族以外に口を開くことがあまりなく、他人や外の世界にあまり興味を示さない子供でした。
公園で遊んだりするよりは、家でゲームをしたり本を読んだりすることを好んでいた私は、友達もほとんどおらず、当時は両親に心配されていました(笑)
そんな私の価値観を大きく変えるきっかけになったのは、小学校4年生の時、ある男性の先生が新しく担任をつとめるクラスに入ったことです。
その先生は、かつて青年海外協力隊として中東・アラビア半島のイエメンに赴任していたご経験があり、授業の中でイエメンで見聞きしたこと、感じたことなどをたくさん私たちに話してくれました。
人々の生活に深く根差したイスラム教と、祈祷の習慣の話
過酷な自然環境でも強く生きる人たちの話
1994年に起こった内戦の傷跡がまだ生々しく残る街並みの話
ある時には、肉屋さんが牛をまるまる一頭解体する様子を撮影したビデオを見せてくれました。
そうして先生が聞かせてくれるもの、見せてくれるもの全てが、まるで自分がそこにいるかのような圧倒的な臨場感を含んでいて、私は自分の知らない世界と、そこに暮らす人たちに強く思いを馳せたのでした。
今ではイエメンは政情が不安定となり、協力隊の派遣ができない地域となってしまいとても残念に思いますが、いつか訪れてみたい場所の一つです。
また、現在に至るまで人々の記憶に強烈な印象を与えた、アメリカ同時多発テロが発生したのも同じく私が小学校4年生の時でした。
テロの発生を受けて、担任の先生は、その映像を私たちに見せながら、どうしてこのような悲劇が起こってしまったかをできるだけ噛み砕いて説明してくれました。
さながら映画の1シーンのように、人を乗せた飛行機が高層ビルに衝突する映像を見て、国際社会や政治のことなどあまり知らない当時の私でも、世界を取り巻く不条理で複雑な現実を肌で感じ、戦慄したことを覚えています。
その頃から海外に強い興味を持ち、違う国の文化や歴史などをもっとよく知りたいと思うようになった私は、不思議と内向的な性格も鳴りを潜めるようになり、段々と周囲の同級生たちともコミュニケーションが取れるようになっていきました。
海外に対する興味とは、自分の外の世界・環境に対する興味であり、自分の籠っていた殻を打ち破る力を与えてくれたのかもしれません。
その後数年の時を経て大学に進学した私は、海外との繋がりを求めて、国際インターンを運営しているサークルに入りました。
そして、大学一年生の夏に中東のヨルダン=ハシミテ王国の孤児院にて6週間のインターンに参加しました。
中東を行先として選んだのは、小学校の時分に見聞きしたイエメンの話がやはり私の中で印象深く、中東という地域に興味を強く持っていたためです。
海外への強い憧憬を抱き続けていた私にとって、このインターンはまさに願って止まなかった貴重な機会であり、見知らぬ土地への不安以上に大きな期待を胸に中東の地へと出発しました。
はじめは、純粋に海外の風景を目にしたいというだけの思いで参加したインターンでしたが、現地での体験を経て、私はまた違う思いを抱くようになりました。

↑ヨルダン・アンマンの孤児院の様子、子供達はいつでも笑顔でした
多くの紛争を抱える中東地域において、ヨルダンは穏健派として比較的安定した地盤を形成しており周辺国家との関係も良好でした。
ですが周辺にはイラクやイスラエルといった国々と接しており、ヨルダンはパレスチナ人をはじめ多くの難民を受け入れている現状がありました。
滞在中には、そのような難民の方が住む地域を訪問しましたが、彼らの多くは戦禍の傷も癒えぬ中で不自由な生活を強いられており、再び生まれた地へと帰ることを強く願っていました。
そうした情景を目にして、私は一介の日本人として何かできることはないのだろうかと頭を悩ませました。
また、インターン期間中にはヨルダンの隣国であるシリアにも訪れたのですが、シリアはその翌年から内戦が勃発し、私が見て回った歴史ある街並みも、空爆によってがれきの山となってしまいました。
実際に見知った場所が、無惨にも姿を変えてしまったのを見るのは、TV越しであっても辛く胸を抉りました。
これら中東での滞在を経て得た経験は、私の価値観にも大きな影響を与え、この頃から
「海外の社会課題の解決に寄与できるような人間になりたい」
という思いを強く持つようになったのです。
そしてその思いは、今でも内なる羅針盤として私を導いています。

↑シリア北部の街アレッポで声をかけてきた人懐っこい現地の子供達。彼らが無事に戦禍から逃れていることを心より祈っています
また、その後、大学2年生から3年生に進級するタイミングで私は1年間の休学を取得し、バックパッカーとして海外を旅し、見聞を広める決断をしました。
旅の途中では、
トルコでスペイン人に誘導され、ぼったくられる
エジプトで数えきれない量のゴキブリと格闘する
ペルーで謎の腹痛により病院送りになる
などの様々な経験をするわけですが、そのお話はまたどこか別の機会にさせていただきたいと思います...

↑カザフスタンの友人宅でブドウを手にする筆者
大学卒業後、晴れて就職!ところが...
大学を卒業してからは、とある芸術系の大学にて職員として入職しました。
本当はやりたい仕事がしっかりと見定められておらず就職活動にも消極的だったのですが、いつまでも就職先を決めないわけにはいかず、またこれまで美術や音楽といった芸術系の分野に関わって来なかった私としては、才能ある学生さんや先生方と関わることができるのは興味深い経験になるだろうと考えたのがきっかけでした。
私は特に美術の教務に配属されていた期間が長かったので、美術の学生と関わる機会が多かったのですが、学生さんたちは優れた技術と才能を持ちながら、学びに対して本当に貪欲で、その姿勢にはとても刺激を受けました。
そして、美術や音楽での才覚を発揮し、海外での展覧会や演奏会を成功させ、国境を超えて多くの人たちに感動を届ける彼らの姿には、
「自分も彼らのように、自己表現を通して世界に感動や笑顔を運べる人になれたらなあ」
というある種の羨望を感じていたのでした。
裏方として学生の皆さんが学ぶ場をしっかりと支えていくという仕事にはやりがいがありましたが、一方で、自分自身の力で世界を舞台に戦っていきたいという気持ちが私の中に宿っていたのです。
入職して4年の月日が経とうとしている頃合いには大学の組織内での異動があり、直接学生さん達を関わる機会もめっきり無くなってしまい、そのタイミングで改めて自身の将来について考え直してみました。
改めて自らの胸に問いかけてみた時、
「もっと色々な社会経験を積んで、自分なりに国際社会でできることを探してみたい」
という結論に至り、別の場所での再出発を決意し、大学での仕事を退職することに決めました。
そうしてその後、私は次の挑戦として、開催を一年後に控えていた東京オリンピック・パラリンピックの競技大会組織委員会に入職しました。
オリンピック・パラリンピックという世界最大のイベントがせっかく東京で開催されるのであれば、その運営に参加してみたいという気持ちと、
「スポーツを通した心身の向上、文化や国籍の垣根を超えた交流を通して、平和な国際社会を実現する」
という大会運営の理念が、自分の中にある
「海外における社会課題の解決に寄与したい」
という思いと共通していると感じたことがその主な理由です。
しかしここで、全く誰も予期していなかった、新型コロナウイルスの急激な流行拡大が全世界で起こり、オリパラは長い歴史の中で初めての延期となりました。
延期が決定して以降しばらくは、大会が本当に行われるのかも全くわからない中で、きっと開催されるだろうという想定の下に準備を進めていましたが、自宅にいなければならない状況で、やや鬱屈とした気分が積み重なってしまいました。
結局翌年には、来日する関係者の数を大きく制限し、感染対策を厳重に行った状態で大会が開催されました。
開催された当時は世間からの逆風がとても強く、どうしてコロナで大変な時にたくさんのお金を使って海外から人を呼んで大会を開催するんだ、などと開催を疑問視する声も多かったように思います。
実際にそのような理由で活動を辞退されたボランティアの方もたくさんいました。
もちろん大会運営に携わる者の一人として、私は誇りを持って従事していましたが、「自分が身を粉にして取り組んでいることが本当に世の中に良いインパクトを与えることができるのだろうか」という自問は大会終了時まで続き、残念ながら思い描いていたような経験とは少し異なるものになってしまいました。
それでも、私自身の中では自問を続けたことは一つの糧になっていると確信しており、
「何かをしようとする時に、それが本当に人々を幸せにすることに結びつくか」
という観点を常に持っていなければならないということを気付くきっかけにもなりました。

↑大会中に設置された五輪のマーク
オリンピック・パラリンピックが閉会し、拠点の片付けが終わった後、私はまた次に取り組む仕事について悩んでいました。
自分の本当にやりたいこと、自分の経験が活かせることに携わりたい
でも自分に何ができるのだろうか
そんなことを日々繰り返し考えながら過ごしていたところ、かつて大学のサークルの同窓会がたまたま開催され、大学の友人たちと久しぶりの再会を果たしました。
お酒を飲みかわし、昔の思い出話に花を咲かせる中で、私が求職中であることを知った、友人の宮村が私にこう言いました。
「フィリピンの農園と提携して、加工食品作りを通して現地の社会に貢献できるような活動を行おうとしているんだけど一緒にやらない?尾崎の経験が役に立つし、きっと面白いと思う」
まったく予期していなかった提案にその瞬間は思考が追いつかず、混乱していたのですが、これは自分がこれまで探し続けていた、社会課題の解決に寄与できるような機会だと確信し、後日宮村の小さいオフィスを訪問し、是非参加させてもらいたいとお願いをしました。
ここから私とフィリピンとの繋がりが始まっていきます。
はじめてのフィリピン渡航
宮村は2020年の12月頃からフィリピン・ザンバレス州在住のMOZO家とのやりとりをスタートさせており、既にオンラインでは、毎週のように打合せをして顔を合わせていたのですが、コロナによる厳しい渡航制限が敷かれていたことから、現地農園を訪問したことはありませんでした。
そこで2022年の5月頃、渡航規制が緩和されたタイミングで私と宮村の2人でフィリピンに渡航し、ザンバレス州の農園を初めて訪問することになりました。
ザンバレス州はフィリピンの首都であるマニラと同じ、ルソン島に位置する州の一つで、中部ルソン地方に分類されます。
広く海に面しており、美しいビーチを楽しむためにマニラなどから多くの人が訪れる場所です。
稲作を中心とした農業が主要産業で、銅やクロムの鉱山が点在することから鉱業も盛んな地域です。
MOZO家の農園があるサンタクルスという地域はザンバレス州の北端にあり、マニラから車で向かうと約8時間程度かかります。
なんとかサンタクルスに到着すると、MOZO家の皆さんが勢ぞろいで私たちを暖かく迎えてくれました。
フィリピンの方はカラオケ好きで歌が上手な人が多いのですが、その日はわざわざカラオケの機械を用意し、慎ましやかなパーティーを開催してくださいました。
次の日は古いトラックに乗り込み、そこから更に1時間ほど山間部の悪路を走り、農園を見学しました。
青々した広い空と、白い雲
すべてを包み込む陽光
優しい土と緑の匂い、新鮮で澄んだ空気
実際に農園を訪れてみて、なんて素敵な場所だろう、と感嘆し、農園が形となるまでMOZO家の皆さんがたくさんの汗を流して下さったことに、得も言われぬ感謝の意がこみ上げてきました。
そして同時に、MOZO家の皆さんはもちろんのこと、フィリピンに暮らす人たちのために、自分たちでできる形で挺身したいと思うようになりました。

↑美しいザンバレス州の農園に、言葉の出ない筆者
帰国後、オフィスに集まった私と宮村はお互いに感じたこと、考えたことなどを話し合い、今後進めていきたいことについて議論を交わしました。
元々、国際協力分野に興味を強く持っていた私たちの根底にある想いは
「自分たちの経験を活かして世界の諸問題の解決に貢献したい」
というものでしたので、まずはそれぞれが現地で感じた魅力、それと社会課題を話し合いました。
現地で私たちが目にした課題、そしてMOZO家の面々から実際に聞いた課題には様々なものがありました。
例えば、大きなものが農業の遅れと雇用機会の不足です。フィリピンは近年目覚ましい経済成長を実現しており、マニラ首都圏を中心にたくさんの産業が発展している傾向にありますが、一方で都市部と農村部の格差は広がっています。フィリピンは、就労人口の約4割が農業に従事している農業大国なのですが、産業別の平均賃金でいうと農業は平均水準を大きく下回っておりフィリピン国家統計局の発表によると2021年時点で農業従事者の約3割が貧困ラインを下回る生活をしていることが分かっています。このように、農業に携わる人たちが十分に所得を得られていない現状があります。更に、農村部は雇用機会が少なく、農家でも働けない人たちが他に従事する仕事も限られてしまっているため、職に就けず貧しい暮らしをしている人たちも沢山います。
実際に私たちと提携をする以前のMOZO家でもそのような問題に直面している現実がありました。

↑MOZO家の様子、雨季のフィリピンは毎日のように雨が降るが、その度に家の中に水が入り込んでしまう
そしてそういった課題に対してどのようにアプローチをしていくか具体化を進める段階で、
「今回の訪問で感じたフィリピンの魅力を広く発信していきたい」
「一方的な喜捨や恵みではなく、フィリピンと日本が対等な関係で協力しあい、双方にとって実り多い事業を展開したい」
という共通認識を確認し、
フィリピンの持つ大きな魅力の一つである新鮮な果実を利用したものづくりを行い、日本国内で販売することで、フィリピンの魅力を伝えよう、という事業の軸となる考えに至ったのでした。
香りを作る?? 精油との出会い
果物をはじめとする新鮮な作物を原料としたものづくりをする、という目標の下、はじめは食品加工に目を付けました。
奇跡の木と呼ばれるモリンガという植物を練りこんだモリンガ羊羹や、マンゴーなどの果実を加工した飲むゼリーなど、様々な商品の試作を行いました。
しかし残念ながらそのいずれも計画段階で立ち消えとなってしまうのです...
食品加工は、原材料の輸出入に係る規制や、加工するための設備の導入など食品の取扱の許可を得るための様々な基準をクリアすることが難しく、初期投資が大きくかさんでしまうという試算が出たのがその主な原因です。
「フィリピンの魅力を日本の皆さんにお伝えしたい」という私たちの情熱の炎はもちろん消えることはありませんでしたが、目の前に立ちはだかる多くの高い壁の前に、諦めるという選択肢が頭をよぎったこともありました。
そんな私たちに新しいアイディア、ヒントをくれたのは大学時代の共通の友人でした。
その友人は自身で新規事業の立ち上げを行い、麻から抽出されるカンナビジオール(略称CBD)という成分を含んだオイルやVAPEなどの各種商品の販売や香料の卸売りなどを行っている会社の創業者です。
彼は私たちに「レモンみたいな柑橘類が含んでいるリモネンという成分が、香料として人気が高いよ」と教えてくれました。
あまり香りや香料には詳しくなかったため、リモネンという成分の名前もそれまで聞いたことがなかったのですが、農園で育てている柑橘類からその成分を抽出することができれば、フィリピンの魅力の発信にも繋がり、面白いのではないかという着想を彼の発言から得た私たちは、食品加工から香料の抽出という方向に転換していくこととなったのです。
リモネンという成分の存在を知ったは良いものの、それをどのようにして取り出すことができるのかを知らなかった私たちは、まず様々な文献を読み情報を収集することからスタートすることにしました。
オンラインで閲覧できる情報ではどうしても限りがあり、関連する論文や書籍などを閲覧するため、時には国会図書館に足を運ぶなどし、目を皿にしてたくさんの文献に目を通しながら、なんとか知識を深めていこうと四苦八苦しました。
しかし、中々知りたい情報が得られずにやきもきする日々が続き、ここで一度は宮村から、香料の抽出を諦めようかという議論が出たこともありました。
私もただ時間だけが過ぎていってしまう状況が好ましくないことは理解していましたが、それでもここで諦めたくないと強く思い、
「まだ諦めるには早すぎる。もう少しだけやってみよう」
と宮村をどうにか説得しながら、懸命に情報収集を進め、断片的な手がかりを少しずつ合わせていき、一定の気付きを得ることができました。
そこで得た結論としては、
①一般に流通している純粋なリモネンは化学工場で合成されており、天然の素材から抽出することはおおよそ難しい
②一方で、リモネンを含む芳香成分が凝縮した「精油」という天然香料の抽出については、大規模な施設を有していなくても、自前で実現できる可能性が高い
という2点でした。
精油は英語でエッセンシャルと呼ばれ、植物の実や花、樹脂といった天然の原料のみから抽出された純粋な天然由来の香料のことを指します。
しばしばアロマオイルと混同されがちなのですが、アロマオイルは香りを楽しむために配合されたオイル全般を指しており、全く異なるものです。
精油をはじめとする天然香料は、希少性が高く比較的高価なため、それに代わるものとして化学的に合成された合成香料が開発されており、世に販売されている香り付き製品の多くはこの合成香料が用いられています。
ですが、合成香料は画一的な香りになってしまうのに対して、天然香料は原料の産地や状態によって複雑に異なる香りを持つことから、香りを愛する人たちの間では天然香料が大変重宝されています。
様々な書籍を購入・読破し、そのような背景について知った私たちは、天然の素材の魅力をそのまま凝縮した天然香料である精油を作ることは、フィリピンの魅力を伝えるという当初のコンセプトにも合致し、また香り市場が年々拡大していることからも日本国内においても良いインパクトを生み出せるのではないかと思い立ちます。
そうして、いよいよ(ようやく)、私たちの精油づくりへの奮闘の日々が始まりました。
(後編につづく)
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